2016年12月11日
豊中・桜の庄兵衛さんでコンサートをさせていただいた時の様子を朝日放送アナウンサー:堀江政生さんが書いてくださいました!ありがとうございます。
産経新聞(奈良) 2012年3月22日(木) 『大和 ひと 点描』 に載りました。
「音楽は聴く人のためにある」
市民らが出入りする大和高田市役所のロビーで3月初め、昼休み時間にバイオリンの音色が格調高く響き渡った。同市のさざんかホールで25日、開催される「金関環と愉快な仲間?!が奏でる素敵なコンサート」に向け、自らバイオリンを奏でてPRした。演奏したうちの1曲は以前、演奏活動で訪れたコロンビアで、老いた女性が「亡くなった友人のバイオリン弾きが残した作品がある」とくれた譜面だった。帰国後、弾いてみると、思いのほか味わいのある曲だった。「最初は譜面に戸惑ったが、段々と面白くなった。即興的な曲だったので、人をひきつけられるようアレンジしながら弾いた」。この曲が聴きたいがために、追っかけをする人も出てきたという。
幼少のころからバイオリンに親しみ、高校を卒業すると渡米。ニューヨークのジュリアード音楽院に入学し、著名なバイオリニスト、ジョセフ・フックスの門下生となった。技術を磨きながら各地で演奏活動し、約15年間の海外生活を経て平成8年に帰国した。しかし、日本に戻ってからの受け皿はなく、苦難の日々が続いた。神戸市内のストリートや喫茶店などで地道に演奏しているうちに演奏する機会を与えられ、各地でクラシックを中心に披露できるようになったという。
バイオリン弾きとして、これまでに大きな感銘を受けたのは、17年前の阪神大震災の被災地での体験だ。震災の数ヵ月後、ニューヨークから一時帰国していた際、神戸市在住の知人から演奏を頼まれ、被災地を訪れた。がれきが積まれた街では音楽どころではないだろうと思っていたが、避難所の体育館で奏でたところ、続々と人が集まってきて車座になり、目を閉じて聴いてくれた。
「人間にとって音楽は本当に必要だと実感した。音楽は演奏者のものではなく、聴く人のためにあるということを思い知らされた」
これが大きな転機となり、音楽の大きな力を信じるようになったという。
天理市岩室町の自宅で昨年からホームコンサートを始めた。普段クラシックを聴かない人にも、気軽に名曲に親しんでもらおうという思いからだ。「来てもらえれば良かったと思ってもらえる。風邪をひいたときに薬を飲むように、心を病んだときには音楽を聴くのがいい。音楽は人間の心に必要な素晴らしいもの」 そう強く信じ、音楽の輪を広げようとしている。しかし、バブル崩壊以降、クラシックコンサートを取り巻く環境は厳しいのが現状という。そんな中、将来のクラシックファンを育てるため、子どもを対象にした「キッズコンサート」も企画。さざんかホールで25日に開くコンサートも、春休み中の子どもたちに楽しんでもらいたいという。
「(19世紀のドイツの作曲家)ブラームスは味わい深く、渋い。内面的な情緒がある」。そう語るバイオリン弾き自身も、どこか渋く見えてきた。
(岩口利一)
■修業時代 金関 環 1998年 『東京新聞』に掲載されたエッセイ 全5回
第5回 「サルサのリズム」 1998年(平成10年)12月26日
「わしの教えたことの25%だけを使え。残りの75%はお前独自のやり方で演奏しろ。50%ずつではオリジナリティに欠けるし、わしが75%になれば、ただの二番煎じだ。いつも新しいものに興味を持て。工夫しろ。前進しなくなったら音楽家は終わりだ。わしも同じことをわが師のフランツ・クナイゼルから伝えられた。」 バイオリンの師匠、ジョセフ・フックスが最後に僕に与えた教訓だった。
師匠は「夏こそが音楽家が最も成長する季節」と言い切り、6週間にわたる熾烈なキャンプを、ニューヨークの北のアルフレッドという田舎町で毎年催した。13年間も続いたこの夏期講習が打ち切られて僕が迷っていた時、コロンビアの友人がカリ市で始めた夏期音楽祭の講師として招いてくれたので、新しい仕事に挑戦してみた。
南米のコロンビア共和国は、想像に絶するところだった。アンデス山脈が南北に連なっているために、赤道直下にあるけれど、標高が高ければ寒く、低ければ暑い。カリという街は、1年を通じて初夏の気候で、常にいろいろな花が咲き乱れ、花のように美人が多い。多種多様なトロピカル・フルーツも豊かだ。言語はもちろんスペイン語。
インディオ、黒人、白人が混血し共生している。人々は陽気で奔放で機知に富む典型的なラテン気質だ。1日中、放送局から騒がしい音楽が流れ、音楽に合わせて体が勝手に動いている。カソリックの厳しい戒律に縛られる反面、エネルギッシュに人生を楽しむ。日本ならとうに廃車になっているような車が、ガタガタ道を全速力で疾走する。事故の発生件数も犯罪率も低いとはいえない。
強い日差し、埃っぽい空気、汗、焼き肉、花、香水、排気ガス、うるさい音楽、物売り、全部がスペイン語で押し寄せてくる。生徒たちの使っている楽器や弓は粗末だが、向上意欲は素晴らしく、乾いたスポンジのようにレッスンを吸収する。ショックだったのは、授業の後、彼等に連れて行かれたダンスホールでサルサという音楽を聴き、複雑なリズムを楽しみながら自由自在に踊る生徒たちを見た時だ。
カリは、キューバ、プエルトリコと共にサルサのメッカだった。人々はこのセクシーな踊りに夢中だ。回転するペアは南国の花のように美しく、生命力に溢れている。本能を突き動かす官能的なリズム。さっきまで騒がしいと感じていた音楽の存在理由を実感した。
僕のお目当ての彼女は言った。
「男の条件はうまく踊りがリードができること。」
それからは連日ダンスホールでの特訓と相成った。ともかく、音楽家の僕にもリズムが分かりにくいほどビートが複雑だ。
「腰、腰、すべての動きは腰から。」「官能的な印象の理由はこれだ!」
と納得する。ぎこちなく体を動かすうちに頭の中でリズムが回り始め、リズムに翻弄され、目を閉じると恍惚状態に陥る。
初めて南米の風土に身をおき、人々の生活の雰囲気とエスプリを五感で受け止め、僕の音楽修行の体験に新鮮なパッションが融合した。師匠の言う「新しいもの」も、体全体で感覚し理解しなければならないものだった。
■修業時代 金関 環 1998年 『東京新聞』に掲載されたエッセイ 全5回
第4回 「街頭演奏」 1998年(平成10年)12月19日
「ここならよさそうだ」
周辺を歩き回ってたどり着いた結論だ。2日前にもそう思ったが、そのときは雨が降り出したのでヴァイオリンが傷むのを恐れて止めた。場所はマンハッタンの近代美術館前。付近では絵は売っているが、演奏家はいない。芸術に感動した観衆が美術館から出てくる。「さあ勇気を出せ」と自分に言い聞かせる。
ニューヨーク州北部の室内楽講習会を終え、8月のマンハッタンに戻ると生活費も尽き果てた。仲間はまだこの街に帰って来ていない。思いあぐねてのストリート・プレーの決行だ。楽器を取り出し、ケースを広げて弾き始めるが、急ぎ足で行く人々は見向きもしない。何曲か弾いてもケースには小銭さえ入らない。僕の予想では拍手喝采の人だかりの中で熱演を繰り広げ、聴衆は深く感動し、ケースはドル札であふれているはずだったのに。
ドヴォルザークのユモレスクを弾き始めるとちらほら小銭が入りだす。道行く人の好みが分かり始めた。クライスラーなどロマン派やヴィヴァルディに足を止める人が多いが、バッハの無伴奏曲などは見向きもされない。明るい曲がいいのだろう。
無表情な人、笑いを投げかけてくれる人、顔を背けて通り過ぎる日本人の観光客。こちらの胸も締めつけられる。道端のヴァイオリン弾きに対して人々の反応はこんなに違うんだ。立ち止まって聴いてくれる人がお金をくれるとは限らない。通りすがりにそっと5ドル紙幣を入れてくれる紳士がいた。親戚か知り合いに食い詰めた音楽家がいるのだろうか。
1時間半ばかり引き続けて足が疲れ、ケースには30ドルほどたまった。初めてにしては上出来だ。向こう側で絵を売っていたヒゲ面の男が店じまいし始めたのにふと気付いた。目が合う。どちらからともなく微笑みを交わしたが、「しまった」と後悔する。初めての相手に気を許すなと言うのは大都会の鉄則だ。
案の定、彼は道を渡ってやって来た。僕は身構える。
「なかなかよくやってたじゃないか。ずっと聴いてたよ。」
「ありがとう。ちょっと休憩さ。」
「でもクライスラーの“愛の悲しみ”のテンポは速すぎたな。」
彼が曲名を挙げたことに動揺しながらも
「僕はあの弾き方がよいと思っているよ。あなたは音楽家なのかい?」
「いや、でも家族に音楽家がいたのさ。ミッシャ・エルマンって知ってる?僕の祖父さんなんだ。」
甘いエルマン・トーンで一世を風靡した巨匠の名にショックを受けたが、本当なのだろうか。疑いの目を向けると、
「クライスラーは晩年にニューヨークに住んでいたんだよ。」
「うん、1950年代に引退してからだろう。」
「そう、祖父さんとチェスを指すためによく家に来たんだ。」
「えっ?本当?!」
ついに話に引き込まれる。
「祖父はよくヴァイオリンの練習をしたけれど、クライスラーから彼の曲の手ほどきも受けたのさ。大ヴァイオリニスト同士だぜ。」
僕の心にはもう憧れがこみあげて来る。彼は続けた。
「その時のテンポ感は君のと違うんだ。」
「ぜひそれを教えて!」
かくして道端でレッスンが始まった。
■修業時代 金関 環 1998年 『東京新聞』に掲載されたエッセイ 全5回
第3回 「ニューヨークの冬」 1998年(平成10年)12月12日
学生ヴァイオリニストとはいえニューヨークでオケラになるのは惨めだ。12月、質屋で買った古物のコートからニューヨークの寒気がからみついてくる。飢えながらアパートに戻ると突如電話が鳴って飛び上がる。同門のヴァイオリニスト、エリックの父親からだった。
「実は、今日やって欲しい仕事があるんだ。いい金になるぞ。息子は忙しくてできないんだ」
「なんでもやります」
「今夜、会社のクリスマス・パーティーがイタリア・レストランである。伴奏なしで客の中を歩き回って弾けるか?」
「はぁ」
「それからもう1つ、これは上司のためなんだが、彼はユダヤ人で『ユダヤの母』って言う歌が泣く ほど好きなんだ。お前知ってるか?」
「いいえ」
「今3時だ。7時までにその歌を弾けるようになってブルックリンのレストランにきてくれ。俺の出世もかかってる。A地下鉄で1時間くらいかかるぞ」
「おじさんその歌知ってますか」
「いいや知らん」
「誰か知っている人を…」
一方的に電話が切れる。慌てて知り合いのユダヤ人に電話するが、僕の世代の連中は誰も知らない。皆、祖母や祖父は知っていたと言う。思い余って、電話帳を開きヘブライ語学校、ユダヤ学校に片っ端から電話するが、冷たく「知りません」と言う返事だ。
何軒目かにアルバイトの女の子がでた。事情を説明すると、笑いだして
「それなら私のフィラデルフィアのおばあさんが知っているわ」
「おばあさんの電話番号を教えてください。お願いします」
何とか電話番号を手に入れ、フィラデルフィアに電話する。ご婦人が受話器をとる。また自分が、食い詰めた日本人のヴァイオリニストであることを付け加えて説明すると、躊躇したが僕に同情し、電話口で歌いだした。僕は五線紙に書き留める。繰り返してもらっているうちに、ご主人らしき人の声が聞こえ、
「どうせ悪戯に決まってる。やめろ変な奴の相手をするのは」
電話口で夫婦喧嘩が始まる。お礼を述べる間もなく電話が切れる。やっと書き留めた歌を覚えるともう6時に近い。外には雪が降り始めた。地下鉄を2回乗り換え、ブルックリンの吹きっさらし駅に着く。雪はますます激しく降り出した。どうにかレストランを探し当てると、内側から天地がひっくり返るようなディスコの音が聞こえてくる。
中に入るとミラーボールが回り、大音量の音楽が流れ、人々が踊っている。恰幅のいいエリックの親父はすぐ見つかった。怒鳴るようにして僕に言う。
「よく来たな。今夜はお前にはちょっとしたライバルがいるぞ。あのディスコの機械だ。構うことはねえ、何でもいいから弾きまくれ」
あの機械を止めるか、音量を小さくできないかと頼むが駄目だと言われる。楽器を弾き始めるが、自分にさえ何も聞こえない程やかましい。酔っぱらいが、何か弾けと言う。弾くと、耳のそばに口を寄せ、
「何も聞こえないからチップはやらん」
2時間奮闘したが、あまりの騒がしさと恥ずかしさに、いたたまれなくなって逃げ出した。
『ユダヤの母』は弾かずじまいだった。エリックの親父もディスコとは知らなかったそうだ。
■修業時代 金関 環 1998年 『東京新聞』に掲載されたエッセイ全5回
第2回 「フックスの教育」 1998年(平成10年)12月5日
マンハッタン西よりのリンカーンセンターは有名なメトロポリタンオペラやニューヨークフィルなどの本拠地である。その一部が僕の通っていたジュリアード音楽院で、白い建物の5階に80歳を過ぎたヴァイオリンの師、ジョセフ・フックスのスタジオがあった。
練習に埋没し、お互いに牽制し合う生徒ばかりが集まったような学校の空気は僕にとって耐え難かった。入学した頃は気安く挨拶していた学友たちが、一人二人と脱落していくうちに、ストレスで誰とも口をききたくなくなった。
フックス先生に師事して数年間、師匠は神のような存在だった。師匠も男子生徒が従順に従うことを要求した。外出するときには自然に手が伸びてコートを着せかけ、鞄や楽器を持って後ろからついて歩いた。横に並んで歩き、歓談をするようになるまでは相当の年月がかかった。
「忠誠心がある」という人物評が彼にとっての最高の褒め言葉だった。
自由の国、アメリカ合衆国で、しかもニューヨークの最先端の音楽院に未だに中世的な師弟関係が息吹いていた。
師匠はかみ砕いて教えることは殆どせず、いきなり100%の結果を求め、その場でできるようにならないと猛烈に怒った。時に、それはたった一音の音程や、フレーズの細かい指使いの流れ方、曲のテンポ感など。まだ第一歩の理解もない生徒にとっては、知らない異国語の口頭試問と同じだった。生徒の中には僕より遥かに年若く、音楽的素養のある者もいた。彼らは師匠の前で自由に歌い、可愛がられていた。
僕は師匠のレッスンの他に聴音や音楽理論、音楽史などの授業について行くのに一苦労だったし、乏しい仕送りに頼るやりくりにも四苦八苦した。しかし、何よりも隔週にあった師匠のレッスンの前の晩は、不安で胃が痛んだ。もしその頃、ジュリアードの助手であった藤原浜雄先生の支えがなかったら、僕は挫折し、破門されていただろう。藤原先生はあらゆる意味で僕の精神的支えになってくださった。
若輩者の心を見通したように、レッスンのあった日、師匠から本日のレッスンに関するコメントと「また翌日か近いうちにレッスンを入れる」というお達しの短い電話があった。しかし、翌日のレッスンの時が近づくとキャンセルの電話が入る。そうと察してたかをくくると時々本当にレッスンが入り、僕は再び殺された。生半可なプライドと人格を徹底的に壊し、その廃墟から本物につながる何かが湧き出すのを期待する。
後年理解したことだが、師匠もフランツ・クナイゼルというウィーン出身のヴァイオリニストから大変厳しい教育を受けた。音楽家が曲に応じて感じなければいけないエスプリ、エッセンスといったものは順序立てて教えることができない。丸飲みにしてその雰囲気の中で長い間息吹き、母国語のように身につけるものだったのだ。未熟な生徒にそんなことが解かるわけもなかった。
第1回 「魔物との出会い」 1998年(平成10年)11月28日
それは見たこともない奇妙な生き物だった。単身、やっとの思いでたどり着いたニューヨークのとある アパートは薄暗く、パイプたばこの香りがこもっていた。
生き物はその一室でさっきまでフックス先生という小さなユダヤ人の81歳の好々爺を演じていた。 しかし、しわだらけのあごの下に古い楽器を挟み込んだとたん、その姿はヴァイオリンに同化し、楽器を体から生やした老木の精に変身した。木の枝のような右手で無造作に持った弓が弦に触れると、左手は三葉虫の足のように機敏に機能的に、そして正確に指板の上を動き回った。楽器から紡ぎ出される音は甘く生命力に溢れていた。鼻は猛禽類の嘴のように尖り、巨大な耳は感情表現に従ってうごめいた。そして刺すような青い目は僕を見据え、身じろぎさせなかった。
「おまえも弾いてみろ」
僕が弾き始めると、ひとフレーズ弾く間もなく止められて注意される。気を取り直してまた弾くと声が荒くなり、三度目には雷が落ちた。解りにくい英語の罵詈雑言を浴びながら、僕が膨らませていたこの人のイメージと現実とのギャップの大きさに戸惑った。
1981年、高校を卒業した春、僕はそれまでの進路を180度転換してニューヨークの音楽院を受験した。突然音楽家になりたくなったのは、前の年の夏、藤原浜雄というニューヨーク在住の若い名ヴァイオリニストに出会ったからだ。
彼はジュリアード音楽院で助手もしていた。藤原先生は、僕の住んでいた奈良の田舎町でコンサートを催し公開レッスンを行った。この町にはヴァイオリンを弾く生徒が少なかったので、受験勉強のためご無沙汰していたヴァイオリン教室から声がかかり、僕も公開レッスンに引っぱり出された。藤原先生の卓越したヴァイオリン奏法と表現を目の当たりにして衝撃を受け、「嫌々やってきた受験勉強に何の意味があろうか。この道に入って100%の努力をしてみたい」と切に願った。
夢想家たちが集まったような家族の中で僕の進路変更に取り立てて反対する者はなかった。
「これは大変なことになった。お前はヴァイオリニストになるのか」
祖父が言った。そして昔、京都で大ヴァイオリニスト、フリッツ・クライスラーの演奏を聴き、大阪、神戸まで追いかけたことを語った。祖母も若かりし頃、ハイフェッツやメニューインを聴いた思い出を目を細めて語った。
このようにして、僕は高校を卒業した春、紹介状を手にニューヨークに飛び、到着してすぐジュリアード 音楽院教授ジョセフ・フックスを訪ねた。フックス教授がロジンスキー時代のクリーブランド管弦楽団の首席奏者をつとめた後、独奏者となり、チェロの巨匠カザルスらとも共演したことは知っていた。
しかし今、現実に僕の目の前に立って怒鳴り散らし僕の臓腑を焼いているのは、明らかに妖怪変化か 魔物だった。そのうち魔物の眼光と輪郭がぼやけたのは、目からあふれ出た涙のせいだった。この日から僕は彼を「師匠」と呼び15年間師事した。そしてこの魔物を敬愛するようになり、逝去の日を恐れた。
夏過ぎてやっと仕上がる桜かな・・・
遅すぎるっつうの・・・
不細工な不細工な 彼岸花
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まあ、なんという独りよがりの
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絵ってそんなもんか・・・・
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・・・のトイレの貼り紙・・・